大将のバンコクがらくた人生

こんなはずじゃなかったのに。そんな戸惑いからはじまったバンコク暮らし。でも全く後悔はしていません。やっちまったぜ! そんな、ありのままの自分を、思う存分楽しみながら生きています。日本からはみ出したバンコク暮らし。ちょっとガラクタなぐらいが人生は楽しいのだ。

2012年03月

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自己紹介というと、いささか緊張するものですが、口下手なひとにとっては途端に重苦しい気持ちになるものなのだそうです。 さて、もしそのときに「あなたの本当の姿をつつみ隠さずに話して下さい」と言われたらとても困るのではないでしょうか。私という本当の姿を話すとなるとこんなに難しいことはないのです。それは実は自分が自分自身のことをあまりよく知らないからなのです。

  以前、「私自身はドーナツの穴みたいなものです」と自己紹介された方がいました。その時は何のことかよくわかりませんでした。私という存在を説明しようとすると、自分の名前に始まって、生年月日や出身地や学歴や仕事や家族や趣味に至るまで色々な話に及びます。そのどれもが私独自のものでありながら、私そのものではないのです。私そのものは一体何なのか。ドーナツは外側の輪の部分も穴の部分も合わせてドーナツなのであって、その真ん中の穴だけ求めるわけにはいきません。つまり、私を取り巻くたくさんの「輪」によって私が成立っているのです。なるほどそういう意味であったのかと、しばらく後にわかりました。そのひとは自身をドーナツの穴と表現されましたが、なるほどうまいことを言ったものです。

  さて、ここでもう一度考えてみましょう。本当の私の姿とは何なのでしょう。このことをわからせてもらうには仏法を聴聞する以外ないのです。逆に言えば本当の私を尋ねることから離れた話をいくら聞いても、仏法を聴聞したことにはならないのです。ここが、先祖供養でもご利益追求でもない浄土真宗の姿と言えましょう。

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仏説阿弥陀経にはお浄土の様子が説かれています。
このお経の中には六種類の鳥が登場します。その中にひとつの身体にふたつの頭という不思議な姿をしている鳥が出てきます。これが「共命鳥」という鳥なのです。

  よく見るとお寺のお内陣の仏具彫刻の中に見ることができます。
  さて、この鳥にはこんなお話しがあります。同じ身体でありながらそれぞれ考えていることは別で、お互い仲が良いわけではありませんでした。さらに、片方の鳥は大変美声でしたがもう片方はさほどではないということがありました。良い方は気になりませが、そうでない方は大変その事が気になって仕方ありません。今で言うコンプレックスです。その思いは日に日に強くなりました。そして「こいつさえいなければ自分はこんなに苦労することもないのに」と思うようになりました。ある日とうとう思い余って、毒の実を食べさせて相手を殺してしまいました。これで邪魔者はいなくなった、と喜んだのも束の間で今度は自分が苦しんだ末に死んでしまいました。

これは当然過ぎるほど当然です。いくら、二羽に分かれていても身体は同じなのですから片方だけ死ぬということはないのです。

  さてさて、この話しの意味していることは一体何でしょうか。私たちにとっても自分に邪魔や不要な存在は必ずあるものです。さらにそれを、排除しようと躍起になっているのです。考えてみると、私たちの世の中で厄介な存在や不要のものももとは必要のものと同体でであったことはきれいに忘れてしまっています。

  親鸞聖人は「正信偈」に「信」という字を多く使われておられますが、同時に「悪」という字もそれに次いで使われておられます。それは誰それが「悪い」というのではなく、自らを「罪悪深重」とされて、自己を深く見つめられておられるのです。

「悪」なる者を正義という名のもとに成敗しようとしても不要なものだけ取り去ることはできません。

  さて、後に共命鳥はお互いをいたわり、慈しみ、仲良く生きる姿としてお浄土で描かれています。

  私たちも共の命をたくさん持って生きていることを今こそ忘れてはいけません。

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 宗教を身近に感じることは、生きるということと向き合うことでもある。そして、生きるということと向き合うことは、自分と向き合うことでもある。
 なぜ浄土真宗は日本で一番多いのか。
 このタイトルを住職である自分が気にならないわけがない。正直、自分がこれまで考えなかったことが次から次へと出てくるのだろう。学者という人たちは、それが生業であるから。だからこそ是非手にとってみたいと思う訳である。
 
 震災から1年。心のよりどころを求める静かな動きは未だに社会全体にうごめいている。宗派を超えた取り組みも、またありだと思う。
 浄土真宗が日本で一番多いから素晴らしいというのではない。これだけは記しておこうと思う。どのような宗派であれ、信じる心がまずすべてであるのだから。

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 今日、浄土真宗の教えを学ぼうとすれば『歎異抄』を読まれる方が多いことでしょう。この本は各条ごとに親鸞聖人からお話しいただいた教えが簡潔に書かれています。この書は、親鸞聖人が直接お書きになられたお聖教ではなく、お弟子の唯円が書かれたもの、すなわち聞き書きの書物なのです。

  唯円は親鸞聖人のお弟子のひとりで晩年近くまでお側におられて直接教えを受けられた方です。親鸞聖人がお亡くなりになったあと門弟の中に自分勝手な解釈のもとにお念仏する人たちが出てきました。唯円はこれらの振舞いを見るに見兼ねて『歎異抄』を著されました。「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなり」という序で始まり、「一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて「歎異抄」というべし。」という後序で終わっています。

  「異を嘆く書」が出されるということは決して喜ぶべきことではありません。聖人が自らの人生を通して味あわれたお念仏の教えを直接に聞くことのできたお弟子の中になお、信心の日暮しが送れない難しさを感じずにはおれません。

  さて、学生時代にある先生から「親鸞聖人のお味わいは繰り返し、巻き返ししていただかなければなりません」とことあるごとにお話いただきました。お経典の中でも大事なところは何度も何度も出て参ります。しかしながら耳にタコができるくらい聞いたはずなのに一向にわが身には至り届いていないことは大変残念です。

  唯円はまさに日々聖人から繰り返し、巻き返しにお念仏の救いを耳にされていたことでしょう。「耳の底に留むる」まで聞かれたのです。
  聞いたその時には理解に遠くても、あとから「あのときの話しはこういうことだったのか」と思い返すことのできる話を大切にしたいと思います。

あらゆる者を救いとる教えこそ真実の教え、究極の教えである。


親鸞聖人は仰せになる。

「それ真実の教を顕さば すなわち『大無量寿経』これなり」 (『顕浄土真実教行証分類』 「教文類」)



『大無量寿経』には、あらゆる人を念仏一つで救おうと誓われた、阿弥陀如来の本願が説かれている。



釈尊はその生涯をとおしてさまざまな教えを説き広められた。

この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられた。



あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、釈尊がこの世に出られた目的だったからである。

                             (『拝読 浄土真宗のみ教え』より)

「食欲がないんよ、食欲が。体重も減って、気分まで落ち込んで...」

友人がなげいていました。身体頑健とは彼のこと。お酒も強く、友人と遅くまでお酒を飲んだ次の日に「山へ芝刈りに行くぞ」と、元気な声でゴルフ場へまっしぐら。仕事もバリバリ。風邪をひいて熱があっても「俺は熱に強いんだ」と、三十八度くらいの熱も平気な彼でした。

そんな彼が病院のベッドに横になり、「病院の食事もおいしくない。家で食べてもおいしくない。まいった、まいった。なんでこんなことになったんだろう。俺はどうなっただろうか。みんな、なぜ病気なんかになるのか不思議だったのに」と。

病名は「すい炎」。膵臓の炎症です。四十歳を越えてはじめての入院。「病気に一番縁の無いやつが入院した」と友人たちがお見舞いに行きました。

見舞いに来た友人に彼は言うのです。

「健康が一番よ。健康が。人生なにが大事か、やっぱり健康よ。みんなに言うけど、身体に気をつけろよ」

私にも彼は言いました。

一緒にお見舞いに行った友人が、「そうだな。でも今まで大きな病気をしたことがないお前にとって、いい機会じゃないの。病院のベッドの上で考えろということよ。身体のことも、生活のことも」と応じました。

すると彼は珍しく、「そうだな」とうなずいたのです。

帰り道、「考えろと言ったら、素直に聞いたな。きついことを言ったかな。でも何かビックリしたよ」と二人で顔を見合わせました。

「健康第一」

よく言われることです。健康であれば仕事はもちろん、人生の大きな壁にも立ち向って行き、乗り越えることもできます。でも、もしそうでなかったら...。健康でなくなったら...。

そうです。今まで自分で培ってきた物差しで自分の山坂を測り乗り越えてきたのに、その物差しが通用しなくなるのです。健康でなくても通用する、新しい物差しが必要になるのです

 いよいよ3月。アサヒビールの辻さんと15時に打ち合わせ。会社を辞めるらしい。3月らしい話だ。日本人にとって、3月から4月という季節は深い。
 陸運局で車の税金を払う。交通取締が珍しく緩かった。不思議だ。気合いを入れて月初めの仕事をこなす。ジムにも行く。体力というか筋力の衰えを実感。イカンなぁ。継続は力なり。とりあえず68キロが目標。できる。以前は64だったんだから。

 喉に刺さった小骨のような不快感を何時も抱えていた。ドルフィンとの駐車場問題。自分の思いをチャイさんに吐露した。おかげでだいぶ落ち着いた。タンブン。求めてはダメなのか。そうだった。ひとつ自分の魂の位を上げなくては。
 チャイさんは侮れない。でも不思議な奥深さを持っている。金持ちとは? 色々なパターンがあるんだろう。

 人の為、人の為と思いやっていることが、回り回って自分の為になる。そうなんだろう。

2月28日、バイクのオイル交換。2000キロちょい。調子は良い。サイドミラーが問題かな。あとベランダの植木を植え直す。肥料には注意しなくては。

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