大将のバンコクがらくた人生

こんなはずじゃなかったのに。そんな戸惑いからはじまったバンコク暮らし。でも全く後悔はしていません。やっちまったぜ! そんな、ありのままの自分を、思う存分楽しみながら生きています。日本からはみ出したバンコク暮らし。ちょっとガラクタなぐらいが人生は楽しいのだ。

2012年08月

エジソンの格言の本質について転載してみます。
物事の捉え方、そして物事へのかかわり方。
参考になるかと思います。

「天才とは、1%のひらめきと99%の努力の賜物である」



1929年2月11日、エジソン82歳の誕生日に残したこの名言は、
おそらく世界中で一番よく知られている「格言の王様」でしょう。

「あの発明王エジソンですら、努力の大切さを言っているではないか。
やはり人は才能ではない、努力こそが大事なのだ」

と、努力を重んじる我々日本人にも、たいへん受け入れやすい言葉として愛され、
多くの人たちに、夢や希望を与えてきた言葉です。

ところが残念ながら、この言葉ほど間違った意味が世の中に流布し、
多くの人の誤解を受けている言葉はないのです。


エジソンは、肉体や精神、宇宙などに対し、
独特の世界観のようなものを持っていて、
自身の発明の原動力についてこう述べています。


「人間、自然界すべての現象は、われわれの思いもよらぬ
 はるかに大きな未知の知性によって
 運命づけられている気がしてなりません。

 私自身も、これらのより大きな力によって動かされて、
 数多くの発明を成し遂げることができました」


と。

この「はるかに大きな未知の知性」のことを


「リトル・ピープル・イン・マイ・ブレイン(頭の中に住む小人)」


と呼んでいたエジソンは、発想の原点である
リトル・ピープルの声を聞くこと、
つまり1%のひらめきを得ることが大事だと、
日記の中で繰り返し述べています。


「最初のひらめきがよくなければ、いくら努力しても無駄である。
 ひらめきを得るためにこそ努力はするべきなのに、
 このことをわかっていない人があまりにも多い」


と、自分の発言が世の中に誤った解釈で伝わってしまったことを
嘆いているくらいです。


エジソンは、発明や研究に行き詰まると、海辺に行き、
釣り糸を垂れるのが常でした。

ただし糸の先に餌はつけません。
潮風に吹かれ波音を聞き、自然の中に身を置くことで、
不思議と頭を悩ませていた問題の解決策が浮かんでくるというのです。
自然界や宇宙から流れてくる未知の知性のアイデアをキャッチし、
新しいひらめきを釣る。

エジソンの釣りには、そんな意味が込められていました。

しかし、これは天才・エジソンだからこそできることです。
では、私たちはどうすればよいのでしょうか。


エジソンは、研究に行き詰まったエンジニアにこんなアドバイスをしています。


「問題は君の考え方にある。
 大事なことは、頭の中に巣食っている『常識』という理性を
 きれいさっぱり捨てることだ。

 もっともらしい考えの中に新しい問題解決の糸ロはない」

就職活動で苦労して会社に入ったものの、
理想と現実のギャップにぶち当たり、
外れくじを引いたように感じている人も多いかもしれません。

しかし本来仕事には、当たりも外れもありません。

当時はつまらなくて仕方がないと思っていたはずの仕事が、
後にその人の大きなベースとなるようなことが
往々にしてあるのです。


  私が入社して四年半が経ち、二十七歳になった時のこと。
 広島に技術部門が新設され、私は大阪本社から転勤を命じられました。

  その広島の勤務地に、新卒で入社してきた
 後輩のエンジニアがいました。

 他の同期は東京や大阪本社に配属され、
 彼一人だけがぽつんと広島にいる。
 周りの先輩とは年が離れていて普段話せる人もいない。
 
 季節は夏を迎えていましたが、
 彼は毎日つまらなさそうな顔をして
 図面と向き合っていました。


 私はそんな彼に「いま何の仕事をしてる?」と声を掛けました。
 
 すると彼は

 
 「横田さん、私もう、ずっとこんな雑務ですよ。
  同期は東京で打ち合わせに参加したとか、
  自分の資料がプレゼンに使われたとか、
  楽しそうに話してる。
 
  自分はアルバイトにでもできるような
  雑務ばっかりさせられて……。
  もっと技術屋的な仕事がしたいです」
 
 
 と言って不貞腐れていました。
 
 私は「あぁ、そうか」と返事をして、もう一度、
 「おまえがいまやっているのはどういう仕事なの。
  その図面の縮尺は何分の一?」と聞きました。
  
 すると彼は「えっ、ちょっと待ってくださいよ」と言って、
 端っこに書いてある縮尺の数値を読もうとした。


「おまえ、数字を見ないと分からないのか。
 半年間もずっとその図面の作業をしてきて、
 いまだにそれを見ないと分からないのか。
 半年間勿体ないことしてるよなぁ。

 一つの図面を散々見続ける経験なんて滅多にできんことやで。
 どんな図面がきても、これは何分の一の縮尺だと
 パッと見て言える。それが技術屋の仕事というもんや。
 
 おまえは朝から晩までそれだけをしていて、
 なんで覚えられんのや」


 私の言葉を聞いて、彼は初めてハッとした表情を浮かべ、
 
 
 「自分はこの半年間、雑務としか思いませんでした」
 
 
 と言いました。


 「おまえの先輩が雑務としてこの仕事を与えたか、
  経験として与えたかは分からない。
  いずれにせよ、おまえはそれを経験にはしなかった。
  
  この半年間ただ“消費”をしただけで、
 “投資”にはなっていない。

  図面を見ただけで、縮尺も何も瞬時にして分かる。
  その技術は教科書にも書いていなければ、
  学校の先生も教えてくれない。
  
  これは経験でしか得られないものなんや。
  おまえはその経験の場を与えられてる。
  おまえはすごく恵まれてる。
  
  同期の人間なんかより、おまえのほうがずっと恵まれてる。
  それをおまえは分かってないだけや」


 彼はこのことがあってから、目の色を変え、
 嬉々として自分の仕事に励むようになりました。


 二十代は夢や理想が人一倍強いため、
 会社や上司に文句を言いたくなることも多いかもしれない。
 
 でもそれは自分の知っている、
 ごく狭い世界の話であることが多いのです。
 
 広島にいた彼は、いま自分が置かれている環境で
 できることは何だろう、ここにいる特権とは何だろうと
 考えたこともなく、無益な日々を送っていた。
 
 しかしここから何を学んでいこうかという気持ちや、
 何かを得てやろうという思いさえあれば、
 誰もが充実した日々を過ごせるはずなのです。
       

【引用】
「後輩の仕事観を変えた27歳の説教」
 横田尚哉(ファンクショナル・アプローチ代表)

お寺から歩いて五分くらいのところにOさんの家があります。
こちらと御縁ができたのはかれこれ十五~六年前になります。こちらの奥さんは愛想のいい方で、お参りに行くといつも笑顔で迎えていただき、あれこれと気をつかっていただきました。

 この奥さんが病気になられてその後お亡くなりになって今年で十二年が経ちました。その後もお宅にはお盆やお彼岸のご縁でお参りさせていただいておりますが、残されたご主人が年々寂しそうになっていく様子が気になっていました。ここ近年は病気のせいもあってか、歩くことが辛いとのことでした。

 さて、このOさんは今までお寺のご法座にはお見えになったことがありませんでした。ご自宅にお参りさせていただいた折には必ず「今度の法座には是非お参りください」と声をかけてはおりましたが、中々足が向くことはありませんでした。  そして、今年の秋に自宅へお参りさせていただいた時に「今年の秋のお彼岸には是非お参りに来てください。次の機会にというのはダメです。今ならお寺でお説教を聞くことができます。でも、今より少しでも身体の調子が悪くなれば、お寺どころではなくなります。もしそうなったら一度も教念寺で仏法にあうことがなくなってしまうかもわかりません。 当日は私が迎えに来てもかまいませんから、是非お参りになってください」と頼みました。いつもと違う口調にOさんも「なるべく行くようにする」と約束してくれました。

 はたして、お彼岸のお中日。参詣者の中にOさんの顔がありました。狭い本堂にお参りし、お聴聞するのは大変だったことでしょう。でも、最後まで席をたつことなくお参りしていただいたことはありがたいことでした。

 阿弥陀さまのご本願はこの私を救うためにおたてになったものでありながら、私自身がそのことを気づかないままでいるのです。

 そのことに気づくためにお寺があるのです。そして、ひとりでも多くそのことに気づいていただくことが、仏さまのよろこびとなるのです。

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時間がない、時間が足りないと嘆いていませんか?
かの発明王、エジソンの逸話より時間というものを再度考えてみましょう。
時間がないのではなく、時間を使う能力がないのかもしれません。

1914年12月、エジソンが67歳のときのことです。
災難が彼を襲います。

ウエスト・オレンジにあった研究施設が火事になってしまったのです。
連絡を聞いて駆けつけ、実験道具や資料など重要な物を持ち出そうと
陣頭指揮を執りましたが、時すでに遅し。

施設はすべて焼け落ち、当時の金額で500万ドル近い損害を
被ってしまいました。

目の前で、いままで自分が築いてきたものが
すべて燃える光景を眺めながら、エジソンがしたこと。

それは家族を呼び、こう告げることでした。


「こんなに大きな花火大会はまず見られない。
 とにかく楽しめ」


そして集まった記者たちに、



「自分はまだ67歳でしかない。
 明日からさっそくゼロからやり直すつもりだ。


 いままで以上に立派な研究施設をつくればいいのだ。


 意気消沈している暇はない」




と、平然と言ってのけたのです。

エジソンは、常識だけでなく、
時間という概念に縛られることもたいへん嫌っていました。

普通、我々は「1日24時間」という時間の中で生活しています。
しかしエジソンに言わせれば、1日が24時間であるというのは、
人間が人工的につくったもの。

自分が時間の主人公になれば、1日を36時間でも48時間でも、
自分の好きなように使えるはずだ、というのです。

エジソンの工場の壁には、長針も短針もない
大きな時計が掛けられていました。
ある日、友人の自動車王フォードが


「針がなければ、時計の意味がないのでは」


と訊ねると、


「そうじやない。時間というものは、自分でコントロールすべきもの。
 時計のような出来合いのバロメーターに左右されているようでは何もできない。
 疲れたと思えば、その場で休めばいい。

 仕事が完成するまでが昼間だ。
 自分の体にあったリズム、
 これを自分でコントロールすることが大切だ」


と答えたといいます。

驚異的なひらめきをつかんで形にし、「天才」と賞されることの多い
エジソンですが、決して努力を軽んじていたわけではなく、
むしろその逆でした。


世界中から寄せられる「どうすれば成功できるか」という問いに、
エジソンは、


「野心、


 常識にとらわれない創造力、


 昼夜を問わず働く意志」



の3要素を挙げています。

1日18時間は働くことにしていたといいますから、
人の2、3倍は濃密な仕事人生を歩んできた自負があったのでしょう。


ですから、エジソンにとっては「まだ67歳」。
まだまだ大きな仕事をするのには十分な時間がある、
という発想だったのです。

それどころか、


「肉体は魂の仮の宿り木。
 滅びれば次の宿り先に移動する」


という死生観を持ち、それを証明するための実験を重ねていたくらいですから、
「死」という概念すら超え、次なる成功に野心を燃やしていたのです。


すべての常識を超えて自分で新しい未来を見据え、
創造力を発揮して目の前の「壁」を超える。

天才とはいえ、その裏に、常に前向きに歩みつづけようとする
強い意志とひたむきな努力があったことは、言うまでもないのです。

夏の甲子園もいよいよ終盤。春の選抜大会からの思い出を一つ。
まだまだ復興への道のりは遠い。
「当たり前のことなど何ひとつない」。
この監督の一言が深く心にしみる。

「石巻から甲子園へ届けた思い」
松本嘉次(宮城県石巻工業高等学校硬式野球部監督)

「宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
 被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、
 いまも当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
 悲しみに暮れている方がたくさんいます」


2012年春、21世紀枠で
初のセンバツ甲子園出場を果たした石巻工業。
主将の阿部翔人が行った選手宣誓は、
部員たちがこの1年間のいろいろな思いを白板に書き込み、
その言葉をまとめて作り上げたものである。

監督の私が最後に清書をした時には、
様々な思いが去来し、思わず目頭が熱くなった。


2011年3月11日、石巻市沿岸部を襲った巨大津波により、
我が校の校舎とグラウンドは1,7メートルの浸水をした。
5日間水は引かず、残ったのはヘドロと瓦礫の山。

野球部員は市民800人とともに校舎へ避難したが、
選手の7割は自宅に被害を受け、親族を亡くした者もいた。

当日私は水に浸かりながら周囲の人の救助などに当たった。
3日後、学校を出てからはその間、
昼夜を問わず復旧作業に当たる人の姿をたくさん目にした。

最初に考えたのは、子供がいつまでも
避難所や自宅にいたままだと、親たちも動きがとりづらい。
子供たちに生活のリズムをつくってやることで、
そのリズムが元に戻れば大人たちの生活も
元どおりになるだろうということだった。

そこで思いついた言葉が
「あきらめない街、石巻!! その力に俺たちはなる!!」
である。


選手を集めたのは被災後まもない22日のことだったが、
「野球やりたいか」と聞くと全員が力強く頷いた。
「じゃあ学校再開の4月21日には瓦礫一つない校舎にしよう」
と発破を掛け、皆一日も休むことなく
瓦礫やヘドロの片づけに当たった。

その間、他校の野球部員や近所の方々、
海外の救助隊なども駆けつけてくださり、
錆びついた金属バットなどに代わる道具の支援も
全国からいただいた。

おかげで被災から40日後には
無事練習を再開することができ、
野球ができることのありがたみを実感した。


私は宮城県内の高校で15年野球部長を務め、
3年前、当校の監督に就任したが、選手たちにはいつも


「当たり前が当たり前と思うな。
 人が嫌がることを進んでできる人間になれ」


と言い続けてきた。
高校を卒業して世の中に出れば、
ほとんどの仕事は雑用と雑用との組み合わせで
成り立っていることが分かる。

その雑用を嫌がらずに自らやる癖をつけておけば、
社会に出ても必ず役に立つ人間になれるという
信念が私にはある。

ただ今回の震災で、我われは当たり前のことなど
何一つないことを思い知った。
野球はバットとボールとグローブさえあればできる
といわれるが、まず、やる場所がなければ
何も始めることはできないのだ。

『致知』2012年7月号
致知随想より

 先日、お参りしたご門徒のお宅で「阿弥陀経」のお勤めをしました。日頃は仏前で「正信偈」をお勤めしておられるということでしたので、「正信偈のお勤めをしましょうか」と申し上げると「いえ、阿弥陀経をお願いします」ということでしたので、ご一緒にお勤めさせていただきました。


「小さい頃は毎朝、きみょーむりょーじゅにょらい、をやりました」という声を聞きましたが、今日では住宅事情や家族構成もあって、朝晩に仏前でお勤めする習慣が廃れかけていることは寂しい限りです。


「正信偈」に六首のご和讃をつけてお勤めするスタイルをお作りいただいたのは蓮如上人であります。その時代から今日まで「正信偈」が浄土真宗の大きな柱になってきました。 これは親鸞聖人が心血を注いでお書きくださった「教行信証」の中に収められている偈文でありますからお釈迦さまの説かれた「お経」とは異なる訳です。


 しかし、私たちの日常に正信偈が浸透しているのは、親鸞聖人がお念仏に出遇われて救われることのよろこびが示されているからでありあります。そのよろこびに触れるのが毎朝のお勤めでもあります。


 さて、浄土真宗門徒のお葬式はこの「正信偈」がお勤めされます。日頃のお味わいを最後のお勤めでも変わることなく唱えさせていただくのです。煩悩の中にありながらその姿のままほとけさまの世界に生まれさせていただく、ということです。(不断煩悩即涅槃)有難いことであります。
 どうぞ、日々の中で「正信偈」の味わいを深めさせていただきましょう。

今一度教育というものを見直さなければならない
これからの日本を救うのは、いまの教育にあるといっても過言じゃない
いじめの問題などで学校が教育が揺れるいま
こんな教育の現場に立つ人間もいる
そんな男の熱い思いを紹介したい。

佐藤修一(海陽学園ハウスマスター統括)
********************

午前6時30分、毎朝全校生徒の点呼から
海陽学園の1日が始まります。

その後、中高生合わせて約600名が一堂に食堂に会し、
「いただきます」と唱和して朝食を食べ始める姿は、
まさに壮観です。

ここ海陽学園は未来の日本を担うリーダーを育成すべく、
トヨタ自動車やJR東海、中部電力などの企業が出資して
つくった中高一貫の全寮制男子校です。

単なる学力エリートではなく、
真に国を代表するリーダーとなるために、
「人間力が高まれば基礎学力も高まる」という理念の下、
全寮制の中で規律や礼儀を学び、全人格を磨いていきます。

海陽学園では寮を「ハウス」と呼び、
中学6つ、高校6つ、計12のハウスがあります。

それぞれ管轄責任者として「ハウスマスター」を
一人配置していますが、私は2年前から中学生のハウスを
一戸管轄しながら、ハウスマスター全体を統括する立場をいただき、
生徒たちと生活をともにしています。

教育界とはまったく無縁の世界で生きてきた私に
声をかけてくださったのは、JR東海の葛西敬之会長でした。

私は家が貧しかったこともあって、
中学卒業と同時に少年自衛隊入隊。
そこから防衛大学校へ進み、半生を国防のために捧げました。

そして2年前、第二師団長を最後に陸将として退官した時、
スカウトのお話をいただきました。

自衛官は規律を重んじ、常に国家のことを第一に考えるため、
そういう姿勢を生徒たちに感じ取ってほしいという
意向だったのだと思います。

私自身、この先も同じように国のために
尽くせる仕事をしたいと考えていました。

日本を担う人材を育てることこそ、
その思いに適うものと信じてお引き受けすることにしたのです。


ところが、やはり当初は勝手の違いに戸惑いました。
自衛隊は階級社会であり、責任と権限を与えられ、
命令一下で部隊を動かすことができますが、
ここでは相手は中高生。指示だけでは言うことを聞きません。

そして青年期特有の大変なエネルギーに満ちています。
どうやって彼らを感化善導していったらいいのか  。

葛藤の末、思い至ったのは「教育とは自己改革」
ということです。

生徒たちは私たち大人の言葉ではなく、姿を見ています。
結局は己を磨き、高めていく以外、生徒に
勇気・感動・希望を与える道はないのだと思うようになりました。

まさに格物致知(かくぶつちち)、
体当たりで生徒と向き合う私を支えてくれるのが、
フロアマスターたちの存在です。

各ハウスにフロアマスターが3人配置されていますが、
彼らは海陽学園の人間ではありません。
1年間という期限付きで日本の一流企業から
派遣されてくる20代の独身の青年たちです。

彼らもまた寮で生徒と寝食をともにしながら、
生徒たちの毎日の日誌に目を通し、
アドバイスをしたり相談に乗ったりしながら、
生徒たちの微妙な変化に目を配ってもらっています。

毎週月、水、金にはチューター(教師)とハウスマスター、
フロアマスターで打ち合わせを持ち、
勉強の進捗状況や寮内での変化など
生徒一人ひとりの情報を共有し、
24時間体制でその成長を見守っていきます。

小学校を卒業してきたばかりの一年生にとって、
親元を離れ、規律の中で先輩とともに暮らすことは
大変な環境の変化です。

学園内ではテレビゲームはもちろん、
携帯電話の所持も禁止していますから、
家族や地元の友人との連絡も容易には取れません。

また、1学年百十数名程度の小さな学校ですから、
自分の成績の順番なども自然と分かってくる。
そういう寂しさ、悔しさ、葛藤と独りで対峙しなければなりません。

しかし、そういった一種の逆境の下でこそ、
物質に恵まれ飽食の時代に育った彼らの
眠った遺伝子を呼び起こすのではないかと感じています。

飛行機が逆風を受け、翼に当たる風を利用して
大空に高く飛び上がるように、
人間もある時期厳しい環境に身を置くことで
志や夢、誇り、感謝といった、
自分の中にある本来のエネルギーにスイッチが入り、
そこに向けて一直線に突き進んでいくことができると思います。

そして、一度火がついたら、
さすがサムライのDNAを持つ素直な少年たちです。

こちらが「これ以上やったら体を壊すからやめなさい」
と言うまで勉強に、学校行事に打ち込んでいきます。

中学生は夜10時まで、朝は五時から自主学習を認めていますが、
たとえ1年生であっても自ら机に向かい、
黙々と勉強をしているのです。

また、少し勉強が遅れた生徒がいたら、
仲間内で得意科目を懸命に教え合う姿もあちこちで見受けられます。

その他、スポーツフェスタ(体育祭)等は
「ハウス」対抗で行いますから早朝や消灯の時間まで
皆で一所懸命練習する姿、部活動に打ち込む姿などを見ていると、
日ごとに少年から強く逞しいジェントルマンへと
成長していっているように感じます。

2012年の3月、海陽学園第1期生が卒業し、
大学入試結果などある一定の評価が下されると思います。

しかし、私たちの本来の目的は、
世界に冠たる基礎学力とともに人間力を伴った
次代のリーダーを輩出すること。

卒業生が自分の子供や孫も入学させたいと
思うような伝統ある学園になること。
遙か遠くにある目標を忘れず、
目の前の生徒たちを育んでいきたいと思います。

そして、海陽学園に続き、日本人としての矜持を
育むような学校がこの日本に増えていってほしいと願っています。

通信制の学校でありながら、
歴史教育、道徳教育を通して日本人の誇りを植え付け、
問題行動を起こす生徒たちを更生させていった
熊本県の勇志国際行動学校の野田将晴校長。
歴史教育で生徒を変えていった氏の名言を紹介したい。

●日本人としての誇りを取り戻すことさえできたら、
人間としての誇りも自分に対する自信も取り戻せる。

 そこから夢や希望が湧いてくる。
 人を愛することもできるようになる。
 この7年間で私はそれを確信しました。



●教育は国家百年の大計であるといわれます。
 若者の姿を見れば日本の将来が見えてくるという意味で、
 私は校長に就任して極めて深刻な危機感を
 持たざるを得ませんでした。

 私が感じた現代高校生のイメージは「幼い」の一語でしたね。
 いい替えれば極端に自己中心的なんです。
 これこそまさに戦後の人権教育のツケだという思いを強くしました。
 


●私は教育に携わってまだ8年目ですが、
 いろいろな世界が広がってきました。
 その中で一つ確信を得たのは、
 教育の本質とは祖国の尊い歴史と文化を
 次世代に語り継ぐ営みだということでした。

 生徒と教師が祖国への誇りを取り戻せば、
 いまマスコミを騒がせる問題の多くは
 解決できるのではないでしょうか。



●教育者は、先ず自らを常に鍛錬する姿勢が求められるし、
 その姿勢があって始めて生徒に対して指導する資格がある。
 生徒に志を持てと指導する以上、
 教師自らが高い志を持っていなければならない。

 使い古された言葉ですが「教師は聖職者」です。

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夏の一大行事であるお盆が終わりました。
さて、毎年この時期になると決まって「仏事相談」の電話がたいへん多くなります。「今これから行くからすぐお経をあげてほしい」という単刀直入のものから人生相談にほど近いものまで様々です。中でも「先祖」や「故人」にまつわるものが多くなるのもこの時期の特徴です。やはり「お盆・・先祖・・お墓」などと思いが及ぶからなのでしょう。そのようなご縁の方がお寺に来られ、お念仏のご縁に遇われるとみなさんたいへん安堵した思いで帰られていきます。長い間、どうすればよいか考えあぐねて日延べにされてきたことが晴ればれとした気持ちに感じられるのでしょう。「仕事が忙しかった」「宗旨がよくわからなかった」「お寺がみつからなかった」縁遠くなっていた理由は大体このようなものです。

 しかし、理由はどうあれ、この度お念仏をいただくご勝縁をいただいたのです。お念仏はありがたい法縁ですが、何となく口から出てくるものではありません。私の口から出てくるものは貪欲・瞋恚・愚痴から起こったものばかりですから、お念仏が私の口から出ることは私の側からのものではありません。私以外のところからお念仏のご縁が差し回されたからこそ、「なんまんだぶ」と私の口からでてくれたのです。

 でも「これで先祖もよろこんでくれたでしょう」などと聞くと「亡くなった方々はお経が大好きなのだろうか」と考えてしまします。 お浄土にお生まれになった有縁の方々は娑婆の世に暮らす私たちが煩悩の中に身を置きながら、真実の教えに出遇うことを願われています。そのことに気付かされる縁が本来の仏縁をいうものであります。

 蓮如上人は「後生の一大事」ということばを何度もお述べになりました。お念仏の本当のお心に出遇わなければならないのは「今この時」である、というご催促です。

 この夏にご縁のあったみなさまが真実の灯りに照らされて自ら歩まれますことを心からお念じしております。

 ◆ もともと男性と女性というのは根本的に違いますから、
その違いに基づいた育て方というものを考慮する必要があります。

ところが最近は何かと男女平等ということばかりが強調され、
男女の適性という避けて通れない違いについてさえ、
あまり語られていない節があります。



 ◆ 賢い女性というのは主に3つの特徴があります。

1つ目は素直であること。
  「ハイ」と言って行動に移すことができます。

2つ目は人の批判をしないこと。
   自分の立場・役割を理解して行動できます。

そして3つ目は物事を前向きに考えることができること。
プラス思考で日々努力します。



 ◆ 私は女性の部下を育てる上で、これからの男性のリーダーには
   特に3つの資質が求められていると考えます。
   具体的には、

  ・仕事の本質を語れること
  ・上へのゴマすりをしないこと
  ・男女を公平に扱えること



 ◆ 家庭においても基本的には男性と女性とが
   いかに心を繋いでいくかが家庭円満の鍵を握ります。

   同じように会社・組織においては
   その構成員である社員同士のチームワークがとても大切です。

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