大将のバンコクがらくた人生

こんなはずじゃなかったのに。そんな戸惑いからはじまったバンコク暮らし。でも全く後悔はしていません。やっちまったぜ! そんな、ありのままの自分を、思う存分楽しみながら生きています。日本からはみ出したバンコク暮らし。ちょっとガラクタなぐらいが人生は楽しいのだ。

2012年10月

 
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30日、朝5時半に起きて空港へ向かいました。1泊2日、久しぶりのシンガポールです。朝4時ごろ寝て、昼の12時ぐらいに起きるのが普段のリズム。でもこんな朝焼けに出会えると、たまにはリズムが狂うのも悪くないなぁと思います。はい、マジで。


 スンバらしい朝焼けのスワナプーム国際空港でした。

 ジョニーウォーカーのおじさんの様に歩き続けるのが人生です。でも時にはこうして立ち止まるという動きも大事かもしれないと思うオイラでした。

 神様、旅立ちの前に素晴らしい餞別をありがとう。今日も一日馬鹿全開で頑張ります。

 でも何でだろう、こんな朝焼けを見たとたんに「すき焼き」が無性に食べたくなった。しかも、ちょい甘めのものを生卵につけて食べたいなぁと。でも無理ですね。わかっているって、これからシンガポール……。

 シンガポールから帰ったら「すき焼きパーティー」開催決定!   


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 起きがけに腕立て伏せ30回。シンガポールのホテルを予約。サイアムコマーシャル銀行で先週の振り込みの決済と確認を済ます。事務所で2日分の釣銭を用意。パクソイのソンタム屋のおばちゃんとしばし歓談。歳の頃48歳。昔はそうとう若かったに違いない。(当然か)


 地下鉄でフォアランポン寺へ。午後2時火葬。友との永遠の別れ。悲しみを紛らわせつつ、ナナプラザの近くでバーツからシンガポールドルへ両替。金額は国家機密関わるので非公開。で、家で一息つこうとしたら嫁の鬼の様な命令が……。
 
 紙おむつとティッシュを至急、今すぐ、即刻買ってこい!

 羊のオイラは狼には逆らえない。部屋の扉を閉めるのも忘れてフジスーパーまでバイクをぶっ飛ばす。ちなみに行きつけは3号店。
 
 あっ、イオンカードの支払いがまだじゃないか! だめだな自分。またまたジェーアベニューの銀行へ。引き続き、折り込みチラシをバイクにのっけアソックのフリー情報誌の事務所まで。路上で豚の串焼きとカオニィアオ(もち米)をかき込み、スクンビット26へ移動。来年のカレンダーの打ち合わせ。30分後は割引カードの打ち合わせでスパ銭湯の事務所へ顔だしもする。
 
 インデントで頼んだ食器を確認して、各店舗へ。えっ、ラーメンの麺がない! 早く言ってくれよボブ。またまた倉庫へ出戻りじゃない。
 
 かれこれしていると深夜12時。今月締めの小切手を切り終わったら、旅行鞄の用意。明日は朝5時起きでシンガポールです。パスポートもちゃんと枕元に。

いまから十六年前、二十数年ぶりに会った人たちに
「知恵ちゃんなの? 大きくなって」と迎えられました。

最後に会ったのは私が四歳の頃、私には何の記憶もないのに、
皆さんが大粒の涙を流して歓迎してくれるのです。
戸惑いながらもその涙の意味にハッと思い当たりました。

瀬戸内海の小さな島に牧師だった父に連れられていったのは、
生後六か月の一九七一年夏のことでした。

そこで迎えてくれたのはハンセン病元患者の人たちです。
戦後まもなく発見された特効薬プロミンによって
完治していたにもかかわらず、
当時ハンセン病は感染や遺伝の恐れがある病気と考えられていて、
患者は隔離生活を送っていました。

子供をつくることも禁止され、
断種、堕胎などの強制手術もされていたのです。

それゆえ患者の人たちは赤ちゃんを
見たり触ったりすることはありませんでした。
だからこそ「大島に赤ちゃんが来た日」は
強烈な印象を与える事件だったのでしょう。

そこに思いが及んだ瞬間、
私の目から一滴の涙がこぼれ落ちました。

以来、四国や中国地方で仕事があると、
決まって大島青松園を訪ね、皆さんと親交を深めてきたのです。


大島へ通うようになり、三年ほど経った頃でしょうか、

「塔和子さんのことはご存じ? 
 塔さんはあなたのことをよく覚えているよ」


と入所者の方から言われました。
私も塔さんのことはよく知っていました。

塔さんは療養所の入所者自治会が発行している
月刊誌『青松』に詩を発表されていました。
ご自身もハンセン病を患いながら、
しかし病気のことにはほとんど触れず、それでいて
私を射抜くような言葉を詩にしている。

少ない文字数にもかかわらず、
圧倒的なオーラを放つそのページに、
なんという迫力のある詩を書く詩人だろうと圧倒されていました。

ある時、思い切って病室を訪ねてみると、
パジャマ姿のおばあさんがベッドに横たわっていました。

その姿からはあれほど力強い詩を書く詩人には
とても見えませんでした。

しかし私が「沢です」とご挨拶した途端、
「沢先生のお嬢さんなのね」とおっしゃり、
後光が立ち上るような印象を受けたことをいまでもよく憶えています。

以来、大島へ行くと必ず塔さんのお部屋にも
顔を出すようになり、いつしか一番長く話をするのが
塔さんになっていました。

お訪ねするととにかく詩や芸術の話ばかり、
頭から爪先まで全部詩で埋まっているような人でした。

「あなたも歌手でしょ、詩も書くのでしょ」と言いながら、
ものを生み出す苦しみや詩を書く喜びなどを
たくさんたくさん話しながら、私を励ましてくださいました。

塔さんとお会いしてしばらく経った二〇〇一年、
大島で初めてのコンサートを開きました。

島の外から大勢の人に来ていただいて
療養所を肌で知ってもらいたい、
そんな思いから行った企画でした。

その頃にはいつか塔さんの詩を
歌えたらいいなと漠然と考えていました。


それからおよそ十年が経ちました。

私も四十歳に近くなり、いろいろな経験も積みました。
改めて詩を読んでみると、塔さんが詩で
何を言おうとしていたのか、その切なさが
心に沁みてくるようでした。

塔さん自身、ご高齢で寝たきりということもあり、
まだお元気なうちに歌いたいという気持ちもありました。

最初は軽い気持ちで詩集を読み始めましたが、
いったん読み出すとじっくりと全部読まずにはおれませんでした。

塔和子という人にとって、その詩は命そのものであり、
私が塔和子を歌うことは即ち塔和子を生きることなのだ――。
そう思い至った時、私は肉声でこれを発してみなければ
いけないと感じました。

塔さんの分厚い三巻の全集には
およそ千編の詩が収められています。

そのすべてを声に出して読みました。
まる三か月がかかりましたが、
私にとってなんと幸せで豊饒な時間だったことでしょう。

その中から八つの詩を選び、最初に曲がついたのが
「胸の泉に」という詩でした。



かかわらなければ

この愛しさを知るすべはなかった

この親しさは湧かなかった

(中略)

何億の人がいようとも

かかわらなければ路傍の人

私の胸の泉に

枯れ葉いちまいも

落としてはくれない


 
十代で発症して瀬戸内の小さな島に送られ、
隔離された塔さん。

世間との関わりを断たれた生活を余儀なくされながらも、
彼女は「かかわらなければ、かかわらなければ」と
魂の声を上げている。

人と関わることによって生まれる幸も不幸も、
陰も陽もすべて受け入れて生きる覚悟がそこには示されています。

塔さんは私に「言葉を生み出すことは苦しいことなのよ」と
何度かおっしゃったことがあります。

自身の弱さや情けなさを嘆いている詩もたくさんありますが、
見栄や虚飾を排し、自分にも他人にも神様にも嘘をつかず、
真っ直ぐに、正直に生きていく。

悩みも苦しみも弱さもすべて自分で引き受けて生きていく
本当に自立した女性のあり方を、
私は塔さんから教えていただきました。

幸せも喜びも苦しみも悲しみも、
ささやかな日常の中に全部あるんだよ。

希望を見出したかったら、その日常を丁寧に生きていくことだよ。

塔さんとの特別な交わりを許された幸運に感謝しながら、
その詩に込められたメッセージを
これからも永く永く歌っていきたいと思っています。

 沢知恵(さわ・ともえ=歌手)

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 それ違うんじゃないの? って思うことありませんか? 大概どうでも良いことなんです。でも、そのどうでも良いことを書き綴るのがブログの良いところだと思ってる方多いのではないでしょうか?

 新聞記事みたいな内容じゃ面白くないしね。

 例えばマニフェストという言葉。これここ最近よく耳にします。でも何で英語で言う必要があるのかな? しかも使っている方が日本の政治家の方だったり、大手のマスコミだったりするからたちが悪い。純粋に政党公約って言えば、書けば良いのにとオイラは思います。

 とにかくリベンジだとかリスペクトできるとか、英語を混ぜて使い過ぎじゃないですか? 日本人には日本語という素晴らしい言語があるじゃないですか。日本で日本人同士で話す時ぐらい、純粋な日本語で話しませんかと今日オイラは提案したいなと思いコンピュータへ向かっています。

 まぁその一環として、まず今日一日、日本語変換機能を駆使して生活してみます。外来語は一切禁止。バイクは単車。エレベーターは昇降機。クレジットカード……うっ、難しい、信販購入証券??? ドアは扉。コンピュータは電算情報処理機。あぁ、案外クイズ並の難しさだな。でもなんか新鮮な感じでもあります。

 とりあえずは野菜の絞り汁を飲んで一休みしよっと。

 どうです1年に1回、1日だけでいいですから、純粋な日本語で生きてみませんか?

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 彼が病魔に冒されていると知ったのは、確か3カ月程前のことである。何気なく手に取った雑誌に彼の記事が載っていた。現代医学では原因が解明されていない病気。つまり完治することのない病だ。まさか彼が……。

 雑誌を閉じた途端、鼻孔の奥が熱くなった。そして、思わず目頭を手で押さえた。
 彼と知り合ったのは、かれこれ8年ほど前のことである。紆余曲折を経てスリウォン通りに自分の店(居酒屋)を開いた時だ。
 これまで何度か彼のお店に足を運んだ。彼は10歳ほど歳が上だった。しかし、バンコクで同じ苦労をしている者同士だ。行くたびに、閉店時間を忘れて話し込んだのを昨日のことのように覚えている。同じ九州出身というよしみもあって、妙にウマがあったのかもしれない。
 そんな彼の訃報を耳にしたのは10月25日のことだ。享年51歳。
「馬鹿野郎、勝手に逝きやがって」
 思わずそう呟いた。なぜだろう。心を覆ったのは不思議な安堵感だった。
 暗雲立ち込める人生。絶望の淵に立ちながらも、彼はバンコクを離れなかった。当然のように店に立ち続けた。全てを受け入れ、全身全霊で毎日を生き続けた。
 尊い一日。
 彼の店の灯りは、彼の「尊い一日」を照らしている。日々よ、尊く。あの時、手にした雑誌に書かれていた言葉だ。
 その彼の「尊い一日」が今、「尊い人生」へと代った。日々よ、永久に。 (合掌)

 すげぇー、いや、すんっげぇものビラスーパーで見つけました。標準語では「にがうり」、琉球の人びとは「ゴウヤ」、でも大将の実家の鹿児島ではなぜか「にがごい」といいます。微妙にずれているんですね鹿児島っていうところは……(物の名前だけじゃなく全体的に)。

 ……んで、肝心の何がすんっげぇかって? デカイのよ! 超ウルトラジャンボ!! 生まれて39年、物心ついて色んな人に会い、様々な体験を、そう人並みか、ちょっとそれ以上して参りました。

 が、こりゃないだろう!でかすぎだよゴウヤ君! 
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 もし君が日本の田舎で収穫されたら、どうよ。ビラで売られる前に、絶対新聞記事になっているよ!

 「城間さん家に巨大ごうやが!!!」
 
 なんてタイトルできっと! 田舎は事件が少なく記事なるネタもないしね。それに日本人って「人間の下半身そっくり大根」とかに絶妙に反応するおめでたい民族じゃないですか。(自分もその一人ですが…はい)

 突然ですが、今日のこのゴウヤの驚きを世界史風にまとめて見ました。

 昔、薩摩の青年たちがエゲレス(当時はそう呼んでいただろうと空想)へ渡って何かの拍子に現地のエゲレス人と排尿を共にする。そして、ふと横の男のその人間が男であることを識別する肉体の一部を目にする。きっと今日のオイラと同じぐらいの衝撃を受けたのではないか?

 でかいぞー!でかいことはいいことだ!

 それで、もちろん衝動買い。ついでに豚肉(バラ肉・脂少なめ)、豆腐、玉子も買い物かごへ。そうです正解は3番の「ゴーヤチャンプル」って別にクイズじゃありませんよ。とにかく、この流れ、やっぱ鹿児島人にはもう避けられません。運命的な必然!なんです。

 深夜2時半、自宅へ着いた大将はチャンプル作りを開始。来月は沖縄に行くし、予習を兼ねてのクッキングタイムです。なぜか上半身裸、ヤワラーのおっちゃん並の超クールビズな自分が誇らしく思えます。(エッヘン)

 包丁を持つと人間が変わると言われたことはないですが、妙に気合が入ります!
 まぁ居酒屋やってますんで料理は出来ますよ。でもやっぱり完成度にはこだわりたいですね。なにせ自分の食べるものですから。

 豆腐の崩れぐわい……いいですね微妙に崩れている。美人は3日で飽きるけど、ブスは3日で慣れる。最近ブス燃えしてしまう大将の心情が豆腐にも表れています。

 そして玉子……うぅーんマンダム! なんともいえない火の通り具合。

「君!頼むからもう一度やってくれ」

 そんなこと言われても絶対無理ですね。一生に一度出来るかどうかのキワドイ固まりぐわい。ちなみに使った玉子はCPのもの2個でした。新鮮!
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 さーて、気になるお味は……。もう予想通り! 懐かしいゴウヤの苦みに今にも涙がこぼれそうなぐらいでした。これは民主党の先生方にも見習って頂きたいぐらいの正々堂々としたお味でございます。個人的にはノーベル平和賞を送りたくなるぐらいの完成度と自負しておりますが……。しかし、翌朝テープルの上にゴウヤチャンプルの残りごっそりとあったのは誰にも言わず内緒にしておきましょう。

 さぁ、このチャンプルと沖縄のチャンプル、どっちが旨いか? 来月はいざ沖縄出張です。これは師匠、いよいよチャンプルバトル勃発ですね。

  嬉しいです。だって、タイで働いてバーツで収入を得ていますから。しかも1バーツが3円を超えたいた時代もしっかり記憶していますから。日本から輸入した食材を使っていますから。

 バーツがここ数日かなり強くなってきています。

 そいえば今年の3月ぐらいに1万円が3640バーツぐらいまで行ったのが最高でした。そして4000B台に戻り、またしてもバーツ高に戻りつつあります。 そして今日は1万円が3865バーツ。

 来月は日本出張が2本入っています。当然バーツを円に両替をしなくてはならないわけで……。果たして3800の大台を振り切るのか? それとも反動で戻すのか? そもそも4000Bとかは異常な数値だと思います。 これはタイがどうのこうのというより日本の問題なんでしょうね。

 日本から旅行でタイにくる方は円高の方が良いのでしょう。でも現地で生活する身としては1万円が3400Bあたりがストライクゾーンな気がします。 5年ぐらい前は2890バーツなんて時もありました。でも、それはそれで行きすぎな感じでしたし。

 まぁ細かいことは日経新聞にお任せです。さて何時両替するべきか?

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 やっぱりバンコク市内の移動はバイクに限ります。なんていっても毎日が渋滞だし、駐車場は少ないし。ただ、危険なのは車以上ですが……。約束の時間に遅れて信用を失うぐらいならと、そこそこのリスクを覚悟してもバイクにまたがるお馬鹿の大将です。

 
 そんなバイク人生を謳歌するオイラですが昨日は最悪。なんと家賃を払いに行った先でバイクのエンジンが掛からない事態に陥ったのです。キックでも掛からない。掛け方が下手なのかもしれませんが、今はセルスタートがメインでキック使う人少ないです。ですかこの機能が劣化しているのかな? 

 仕方なく500mぐらいの距離を手押しで帰りました。今にも雨が降りそうな空模様でしたが、不幸中の幸いとはこのこと。雨に打たれず無事に家には到着しました。でも汗びっしょりで、雨に打たれた方が気持ちよかったかも? やっぱ不幸中の不幸だったかな。

 家に着いてバイクの現場検証をしてみると、どうもバッテリーがダメなようです。スクンビット道路沿いのバイク部品屋さんへ車で行ってきました。バイクなら5分のところを15分かけてです。

 「これと同じものを下さい」
 「ユアサにしとけ。これの2倍はもつから」

 いくら営業トークとはいえ自信満々のオヤジさん。反抗期はとっくに過ぎたオイラは言われるままにユアサのバッテリーを購入。560Bなり。果たして日本と比べて安いのか? 高いのか? メイドインタイランドですから、日本よりは安いかもしれませんね。

 家に戻り早速作業開始。最後のねじを締める段階で何と腰にブルブルと振動が……。一瞬感電かと怯えたオイラですが携帯電話でした。なんとシロシロ師匠からのアポの確認の電話。あぁ~なんというタイミング。お陰で落としたねじを見つけるのに3分半も焦ったオイラでした。
(業務連絡:明日は午後5時ですね。了解です師匠。)

 やっぱユアサのバッテリーは凄い。スコーンと軽くホームランを打ち放したような感覚でエンジンが掛かります。バッテリーひとつでこうも違うもんなんだな。新品ならではかもしれませんが。 バッテリー屋のオヤジじゃないけど、バイクのバッテリーもやっぱりユアサ、日本企業のモノがお薦めです!

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 あーあれが食べたい。

 そんな欲求が急に高まることがないですか? ほら子供のころ夏になるとアイスが無性に食べたくなったり、クリスマスにローストチキンにかぶりついたりとか。
 
 大人になるとその辺のレベルがかなり狂いがちで、しかもタイですからね……。
 
 イライラが続いたり、どうしょうもない不安にかられる時、なぜだかソンタムが食べたくなります。あのギューっと脳みそを締め付けるよな辛さ。あれが堪らないんだと思います。そんな脳内覚醒を求めて飛びきり辛くしてもらうのがお馬鹿の大将流。
 でも翌日が辛い。脳と胃腸では全く受け付ける許容量が違うようです。でも、そうしてトイレで瞑想を重ねるうちに悩みも解決なんてこともあるから効果ありでしょう。

 今日も食べましたソンタム。もう散々なことがここ数日続いています。  

 やはり知らないということは損ですね。情報を制する者が勝負を制す。そう言い切る人もいるぐらいですから。だってそうじゃないですか? 模擬試験とかも敵を知るための儀式ですよね。

 まぁ今回はそれほど大げさなネタじゃないです。ほうほう、そんな制度もあるのね。そんな感じです。果たして役に立つかは別にして、せっかくですから沖縄がらみのネタを一本書きこんじゃいます。

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 こんな助成金があるんだなと知ったのは出張を決めた後でした。沖縄の産物輸出振興の為に沖縄へ視察や打ち合わせに行く際に旅費と宿泊費の助成金がでるらしいですよ~~。台風17号並の強烈な勢いで師匠からメールがどばぁどばぁと届きました。


 ならばと取引先の取り計らいもあって、招聘の段取りをしてもらったのです。沖縄への出発日が迫っていて、果たして出発までに決定となるかは微妙でしたが。しかし、やってみるもんですね。

 助成決定! ……らしいです。マジ嬉しい。

 これが小学生だったら校長先生から全校集会の時に、「貴方の日頃の行いが良いからですよ!」って生徒全員の前で褒めて頂けたかもしれません。

 とにかく、できるとか、できなとかではなく、やるか、やらないかですね。行動せずに結果なし。でも正念場は沖縄に行ってからなんですが。

 出発日は航空会社の都合で延期になりましたが、結果オーライ、塞翁が馬です。(この言葉の意味がわからない方は広辞苑で調べてね)

 なにはともあれ本日、2人分の航空券代と3泊分の宿泊費の助成決定。沖縄に行ったらメンソレータムじゃなくてメンソーレ。間違わない様に気をつけよう。

 オイラの知り合いの叔父さんはいまだに「バイアグラ」のことを「パラグアイ」ってマジな顔で言います。それって南米の国だけど、それを知ってる叔父さんを心の片隅で尊敬しているオイラも問題かな?

 ティーダのみなさん、ウルトラサンクスです。    

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